月と太陽と星と水瓶と

飛鳥井誠一のお仕事や近況です。略歴はこちら> http://profile.hatena.ne.jp/A-sky/

二次元を入り口に聖書に聞く 古代と未来の非現実的な現実‐SAO2マザーズロザリオ編より‐

「わたしたち強い者は強くないものの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした。(あなたをそしる者のそしりが、私に降りかかった)と書いてあるとおりです。かつて書かれた事柄は、すべて私たちを教え導くためのものです。それでわたしたちは聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなた方に、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」ローマの信徒(教会)への手紙15章1~6節

 

ー現実と物語上の生死の重み

 伝染病や交通事故よりも多い自殺。自殺志願者を募って自分の中の歪んだ欲望を満たそうとした者や障碍を抱えた人達の施設に勤める者が施設の利用者の命を値踏みし社会に有害だと決めつけて殺傷、罪に問われても全く反省を見せない事件すら起きています。インターネットとSNSは世界の人々の繋がりを劇的に変えましたが繋がりを増やすとの同じかそれ以上に惑わし分断をもたらしています。人と人との距離の在り方を変える中で心の平安を脅かされる人達も増えています。長引く自国の不況だけでなく、軋みが増す一方の世界情勢、とどめを刺すように全世界に新型伝染病が瞬く間に流行し国々はおろか国の中や町の中に至るまで混乱と分断をもたらしました。無論、この嵐はキリストの体である教会をも容赦なく襲い礼拝・ミサ・集会の様相を一変させました。

様々な人々が集い祈りを合わせ、神を礼拝するこれまでの教会の概念が新しい伝染病の前では重大な弱点となってしまったのです。しかし、礼拝の動画配信などカトリックプロテスタント問わず行われ新しい教会像が模索されています。私のこの拙稿もその一助となれば幸いなことこの上ありません。さて今回は史実にもあるローマ支配による苛烈な状況下で非現実的な出来事や考え方を記した聖書と虚実入り混じっているネットに溢れる情報やノベル・ゲームの物語の接点をネット上で現実的な体験をもたらす仮想現実体感型集合オンラインゲーム(VRMMO)の世界を舞台に生死を賭けたドラマで大人気を博したノベルのアニメ第2作「ソードアートオンライン2」のクライマックスであるマザーズロザリオ編から考えてみます。

本当の命を賭したゲームから生まれた絆

大変有名なライトノベルなのですが、私は最近まで触れる機会がなく「ソードアートオンライン」の派生作品である時雨沢恵一氏の「ガンゲイルオンライン」に別のアニメから入った口で全容を把握できていません。そんな俄かで恐縮ですが本編のあらすじについて記したいと思います。「アクセルワールド」が好評を博した作家河原礫さんがそれより先に構想し、出版元の理解もあって商業出版化、大好評となりアニメ化も重ねられている作品です。

時は近未来というか本稿を執筆している後数年後の現代、技術の進化が生み出した初の仮想現実(VR)体感型のオンラインロールプレイングゲームソードアートオンラインSAO)」は歓喜の内に正式サービス初日を迎えます。しかし歓喜の声は一転、悲鳴と怒号に変わってしまいます。開発者「茅場明彦」から1万人ものプレイヤーが100層あるゲーム世界アインクラッドをクリアしない限り自発的なゲームの終了(ログアウト)が出来ず、ゲーム内で操作する分身であるアバターの死がそのままプレイヤー自身の死に反映されてしまう事態が告げられパニックとなります。物語の中では主人公キリトを中心に集合型オンラインRPGらしい様々な営みが描かれ、死を恐れつつ仮想世界での暮らしを粛々と過ごす者、クリアを目指す者、秘めていた歪んだ衝動に身を任せ文字通りの殺人を行う者が入り乱れ様々なドラマが描かれていきます。そんな中でキリト「桐ケ谷和人」はアスナ結城明日奈」ら仲間と共に何とか現実世界に生還します。キリト達はその後もSAOを継ぐように登場したVRMMOアルヴヘイム・オンラインALO)」を中心に集まりゲーム上は勿論、現実でも絆を深めていきます。

ALOを楽しんでいた或る日、アスナは剣技に秀でたキリトですら対戦で負けたアバター、通称「絶剣」の存在を知り勝負を挑みます。キリトほどでないものの「バーサクヒーラー」の二つ名を持ち、SAOでは一流ギルドの副団長すら務めた剣の使い手であるアスナは激闘の末に何故か「絶剣」に見初められ「スリーピングナイツ」というパーティの元へ連れて行かれ協力を求められます。

-ぼくたちと一緒にボス攻略してほしい-と。

「絶剣」ことユウキ達のパーティ「スリーピングナイツ」は様々なオンラインゲームを渡り歩いてきましたが、訳あって解散する事になり有終の美を飾るべくALO前人未到の偉業に挑戦していました。それは各エリア(階層)のボスモンスターを最初に倒した者に与えられる石碑へのID刻銘七個分にメンバー全員の名前を刻み、自分たちがここにいたという証を残し忘れられない思い出にしようというもの。ユウキ達の目標とは通常、七つのパーティ最大49人が協力して挑戦しないと勝てないとされる強大な敵を単一パーティ最大7人で倒そうという大変なものです。ボス戦は困難故に最初にクリアした記念にALOで開始直後に訪れる街の会堂に設置された石碑に7つまで名前が刻まれる栄誉が待っています。通常の刻銘は参加したパーティの代表者の刻銘が行われる所、ユウキ達はスリーピングナイツのメンバー全員の名前を刻む為、単一パーティで挑み、現メンバー6人以外で足りない戦力に値する者の選定を決闘で探していたのでした。アスナは戸惑いつつも参加し、途中遭った思わぬ妨害をキリト達旧知の仲間の支援を受けて退け、見事単一パーティでの攻略を達成します。

しかし、ここから物語は暗転します。打ち上げとしてメンバーの名前が刻まれた石碑の前で記念撮影後、ユウキがバトル中そしてバトル後に自分に対してかけた「ねーちゃん」という言葉についてアスナが問うとユウキは涙を浮かべ姿を消してしまい、以降アスナを拒絶します。ユウキの同僚であるシウネ―もアスナに声を掛けつつもユウキの意を汲み「あなたは私達が最後に出会えた素晴らしい仲間だけどこれっきりにしてほしい」と去っていきます。戦闘中のユウキの言葉に現実での問題への励ましを受けたアスナはどうしても諦められずキリトの助力を得る事で何とか現実世界でのユウキの居場所を突き止めます。その辿り着いた意外な居場所でユウキの事情を知りつつも全て受け止めたアスナと手掛かりを残さなかったにも拘らず自分の予感通り会いにやってきてくれたアスナの熱い思いを受け止めたユウキは再会から互いを受け入れ現実世界・ALOと垣根無く親交を深めていくのでした。物語はユウキとの死別という形で最期が訪れますが、今わの際にユウキはオリジナルの剣技に「マザーズ・ロザリオ」と名付けアスナに伝授し、アスナは「いつの日か私がここ(ALO)を去る日が来たらこの技は必ず誰かに伝える。あなたの剣は絶えることは無い」とユウキに応えます。

スリーピングナイツとアスナ・キリトのパーティだけでなくアスナの呼びかけに応じ集まってきた数え切れないALOアバター達に看取られ、ALOの中で絶対無比の剣士「絶剣」と称えられたユウキはこの世とアルヴヘイムでの旅路を終え、この物語はフィナーレを迎えます。

-人生の苦難の意味-

さて、シリーズの副タイトルとしてマザーズロザリオと冠せられている所からも聖書・キリスト教の影響を受けている物語であることが容易に察せられます。

先のアスナがユウキに贈ったセリフなどマタイ福音書16章の「あなたはペトロ。私はこの岩の上にわたしの教会を建てる~あなたが地上でつなぐことは天上でも紡がれる」を彷彿とさせますし、回想シーンでユウキが姉や母と共に教会で祈りを捧げる描写もあり、エピローグでユウキの葬儀会場として使われているのも教会です。

 

キリスト教は教会以外では学校・教育そして福祉や医療といった社会の重要な分野で西洋は勿論、維新後の日本を支え、重要な役割を果たしてきました。福祉・医療と縁深いのは旧約の時代より神が様々な苦難に遭うユダヤ民族に厳しく臨むこともありつつも寄り添い支え励まし続けた事や新約のイエスの足跡がそういった事業に従事する人の支えになっているからかもしれません。特に医療においては従事者だけでなく、病に襲われた人にとっての光・支えとなった事実において作家の三浦綾子氏など枚挙に暇はありません。

ユウキの困難のような不条理はいつの時代も存在し、それは聖書が編まれた時代でも同じです。旧約聖書にはヨブ記という不条理に苦悩する義人(正しい人)の物語があります。

ヨブ記箴言(しんげん)、コヘレトの言葉と並び「知恵文学」に位置付けられる劇的な対話形式の詩ですが何というが酷い話です。

ヨブという世の誰からも神からも義人として認められた人が神と悪魔の気まぐれにより大変な災難に遭います。そこからヨブと妻や友人3人が神を信じる事の意味を対話していく話であり、全ての人に分け隔てなく訪れる災厄に対する人の苦悩を追及した古代文学の傑作です。

 

ユウキは家族共々その生まれた時から背負った境遇の故に苦しみ、理解のない隣人から差別も受け、他人に何も報いることもできず迷惑をかけ続ける日々に自分の生きる意味を見付けられないまま15生き続けました。その中で負い目ばかりを感じて日々を過ごした生い立ちが回想や周囲の人から語られます。

しかし、スリーピングナイツのメンバーそしてアスナと出会い、困難に立ち向かう勇気をアスナに与える事ができ、支えてくれる人々の善意を浪費するだけの空虚な存在ではないかと苦しみ耐え続けた日々が無意味でなく特別な何もない自分が存在するだけで他の誰かの為になると気付き、支えてくれるアスナと自分の生、在り方を受け入れていきます。

マザーズロザリオ編の後半、ユウキはアスナとの外出の際、一家が最後に笑顔で暮らせた一軒家に立ち寄り、亡き母が生前に教会で捧げていた祈りの意味がようやく分かったと告白します。

 

「ママはよくお祈りの後に、ボクとねーちゃんにこういってくれたんだ。神様は私たちに耐えることのできない苦しみはお与えにならないって」-23話「夢の始まり」より-

幼い時はそれが聖書の一節に拠る事を理解しつつも反発したユウキでしたがアスナと出会い、自分の何気ない一言が困難に立ち向かう勇気をアスナに与える事ができた事で母の祈りが言葉や形で言い表し切れない愛しみと励ましが秘められたものだった事に気付いたのです。

 

新約聖書においても旧約聖書に記され定められた律法により、病や生い立ちなどで穢れた物とされ社会から排除された人々がイエスによって救われる物語が多数存在します。

ヨハネ福音書にはこのような箇所があります。「ラビ(先生・師匠の意)、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからですか?本人ですか。それとも両親ですか。」現代の日本においても未だにこのような考えを見かける事がありゲンナリしますがそれに対しイエスはこう答えるのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである(9章1~3節)」

伝記に収められたヘレンケラーや野口英世など偉人と称えられる人でも最初は病やケガ、天災など困難の中にあった所に思いがけない救いの手が差し伸べられ、偉業の第一歩が始まったケースが多く有ります。

苦しみの闇に光が差した時、人は溢れる喜びから失われた楽園での本来の姿に近づけるのかもしれません。

 

他人の弱さを担う強さ

 

SAOではゲーム世界のアバターの能力としての強さが仮想現実性とともにイコール本来の強さかどうかというテーマの描写が度々出てきます。

しかし、人は自分が思っているように良くも強くはありませんし、想像よりも実は強く良いものでそれは自分一人では気付けない事が多々あります。それは事実で古も今も変わらないものです。そして聖書に記された人そして神の強さは人の世の基準からすると彼岸の彼方の物であることが多く有ります。

アニメSAO2ではマザーズロザリオ編以外に前半のファントムバレット(ガンゲイルオンライン)編ではシノンというヒロインの心の傷、そしてマザーズロザリオ編ではユウキの苦難が物語の背景として描かれます。どちらにもSAO事件とは違う形での死の闇が深く漂うものです。しかしシノンとキリト、ユウキとアスナの会話の中で明らかにされていく背負った(耐え忍んだ)苦難が強さとして称えられます。どちらでも共通しているのは自分の思いと違う他人の視点から自身の強さ・優しさを認められるところです。そしてその強さは自ら誇ったところではなく、むしろ彼女達がこれまで背負ってきた十字架が結果として強さとして称えられたものでした。ちなみに十字架はキリストの象徴ですが、本来は洋の東西問わず過酷な死刑方法であり処刑場まで受刑者自ら背負っていくものでした。イエスは自らを「父(神)の子」であると証しつつも決してこの世の王や神の生まれ変わりを名乗る現代の宗教家の様に自分を高みには置かず常に旧約聖書に収められた神の預言に殉じ、弟子の脚を洗ったように人の下に自分を置き、磔刑を含む苦難を甘んじて受けました。あの十字架は罪のない人を磔の死に追いやった人々の罪の象徴であると同時に、それでも神が人を見捨ず楽園追放の際に人にかけられた死の定めからの解放した神の忍耐と愛、赦しの証とされます。聖書で説かれる本当の正しさや強さが普通の価値観で愚か、無駄とされる所にあることについて新約聖書の主要人物の一人であるパウロも「私は弱い時こそ強いのです」と含蓄のある言葉を残しています。

 

-幻実と人を繋ぐもの-

 

今回取り上げたローマ書(ローマの信徒・教会への手紙)はキリスト後の使徒パウロが伝道した各地の教会・信者に遺した書簡の一つです。

ローマ書は義務教育の歴史を学んでいればキリスト者でなくても知っている「宗教改革」の土台となった文書です。一般的なプロテスタントの始まりとして取り上げられるマルティン・ルターが時のヴァチカンを批判し袂を分かつに至ったきっかけがこのローマ書(の1章)であり続く5章は多くのプロテスタンティズムの根幹を成す「信仰義認」を代表する箇所と言われ、パウロが異邦人の受け入れに躊躇する当時のユダヤ人たちに形式的な割礼など律法に基づく振舞いではなく聖書に記された福音に基づく信仰を求めた箇所です。苦難・忍耐という言葉も並び、当時既にローマ帝政により残虐な迫害が起き耐えることも説いていたのかもしれません。

ローマ書15章はパウロが教理(教えの基本的解釈)的に5章で熱く語ったキリストによる信仰と今の苦難への忍耐から確かになる神の臨在と希望を日常生活における「(異邦人を含む)隣人愛」を通じて信徒たちに説いています。

実のところ、本稿の為に有名な5章を端緒にローマ書を読み直して初めて15章を目に留めましたがユウキの母親が教会で捧げた祈りを支えた箇所としか思えないとても素晴らしい箇所であると今更ながらに感動した次第です

 

今、私達はSAOそしてユウキとは違った形で死や病による苦しみが身近なものとなった日々を過ごしています。それでいてネットや画面の向こうから入ってくる世界とこの国を覆う闇と病を今一つ実感に欠ける形で受け止めているようにも感じています。

或る国の新型ウイルス感染者が数万人である事、ウイルスの出自や悪性の度合い、感染力についての様々な憶測、自分の住む地域や近隣の日々の感染者数について報道や意見、SNS上でのコメント、他人事か完全な個人的な思いに基づくものの様に見える事が多々あります。確かに画面越しで見ると正直な話、まるでゲームやドラマ、アニメのワンシーンを眺めているようです。

しかし、数字や文字でしか語られないニュースや呟きの先に確かに人はいるのです。毎日絶えない感染者や死者の人数、私達はただ数字でしか触れられません。
下手をすれば、
SAOのキリト達や、別の事情で数年間ずっと仮想現実から世界に接しているユウキの方が「死」というもののリアリティを感じるのではないか。そうとすら思える時があります。他人の痛みや苦しみは画面の向こう、文字や絵で「見る」だけではあくまで他人事なのです。同じ体験が無くとも他人を「思う」ことが出来なければゲームでの体験も聖書の物語も仮想現実ですらない空虚なものではないか?裏を返せばゲーム内でのドラマも聖書に残された古代イスラエルやイエスによる数々の物語も想像力・感受性、優しい心を働かせて受け入れれば等しく現実と同じにその姿を見せてくれる。アニメSAO2で描かれたアスナとユウキの物語はそう語っているように思えます。