高(鴻)沼用水ポタリング
子鳴き爺と雷鳴
やはり不調が続いた今週の疲労が石になった子鳴き爺のように重しになって断念。抱き枕抱いて俯せに突っ伏して二度寝。
何とか起きて昼飯を済ませてから、ちょっと日が陰っているのは気になったけど久し振りに敷き布団干して外出ようとしたら急に大粒の雨そして雷鳴。
そのまま3時間くらい積んだえろげに手を付けて不貞腐れてました。
5時前になってようやくネットの雨雲レーダーもクリアになったので銭湯がてらちょっとだけ出かけることにしました。
先ずは毎日の通勤路に沿って与野~さいたま新都心方面へ
与野駅を過ぎ、かつて11本の線路をまたぎ古く細いことから渋滞が頻発し交通の難所だった大原橋があった辺りまで行きました。
現在は新都心大橋なる4車線の立派なイルミ付きの単弦ローゼ橋が見沼方面まで伸びています。
大原八枝神社という傍に墓地もある古くからこのあたりの集落と共にあったことが伺える社がありました。
その名は「高沼用水(こうぬまようすい)」
始点~新都心駅まで
早速スタート。細い用水路が滔々と水を湛え流れています。自転車でちょうどいいくらいの道が両岸を走ります。
先ほどの産業道路が見えてきます。目の前のステーキハウスはこの近辺から足立区まで点在するのですがどこも昭和っぽい古めかしさと何故かコインランドリーが併設されており謎の存在。ちなみに知り合いが足立区内の店舗で食べたことあるそうですが感想は(以下自粛
脇を通り再び用水路を辿ります。住宅街途中の道路橋が思いの外オーラを漂わせていたので一枚、高沼用水にちなんでか「鴻沼(こうぬま)橋」とありました。
そのまま自動車一方通行の小道を逆走するように辿ると新都心のショッピングモールCOCOONCITY駐車場が見えてきます。用水はその手前のコンビニの袂から暗渠化されほぼそのまま線路向こうまで続きます。
ここでちょっとだけ経路を間違えて三菱マテリアル跡の方へ、そこで北袋天神社という小さな社に出会います。
さっきの大原神社はお稲荷さんでしたがここはその名の如く菅原道真公です。小さな石の鳥居ときちんとした舞台が印象的です。
(あと三つ富士?の権現も)
再開発待ちの空き地を抜け、立体駐輪場脇の公園(暗渠)へ。川をイメージしてかちょっとうねうねしてます。
小学校~与野中央公園
ここから自転車で線路の向こう側、いわゆるさいたま新都心に行きたいのですがどうしたものか。
この時、先ほど渡った大きな道路がそのまま通じていることに気づかず(帰ってからこのエントリ書くために調べた時に発覚)
渋滞の名所なのに敢えて通行止めにして工事したと着工当初は話題にもなった所です。
(理由としては下が四六時中列車が通り、普通の橋の架け替え工事のようなプロセスが取るのが困難だったからのようです)
橋を渡って先ほどのポイントの向かい側、暗渠の仮定地点に来ましたが手掛かりになるものが見当たりません。
線路を離れ、向かいに小学校を望む4車線道路を行きます。多分、この下を暗渠で通しているものと思われます。
というのは道の両側は高層建築物ということもあり暗渠がよほど深くない限り建物の下を通すのは考えにくいからです。
それを裏付けるようにT字の交差点の真ん中を抜けたあたりから用水路が再び現れます。しかも何やら農業用の堰と思しき遺構も見える形で。そして暗渠で小学校のグラウンドを抜けると現国道17号付近の暗渠を除いてほぼ開渠のまま終点近くまで続きます。
マンションの間を細くしかし豊富な水量で確かな存在感を示しながら流れていきます。
与野中央公園端部まで住宅街となった台地の縁を緩やかに進みます。与野中央公園傍で荒川からの分流であり、高(鴻)沼を形成していたズバリ鴻沼川に繋がる分水路の暗渠と水の交差点を形成しています。ここで道路を渡り公園の中に入ります。
その公園脇のあたりからは造成中のR463バイパスのあたりまで自転車でのポタリングにぴったりな遊歩道が続いていて気持ちがとってもいい!どんどん先へ進みます。もっとも日没が近づいて焦っていたのもありましたが。
南与野~終点鹿手袋
ここでいよいよ日が完全に暮れてしまいました。そして高沼用水を辿る旅も浦和の台地の縁を通る為、住宅地と農地やら処分場みたいな未開発の空間のせめぎ合う微妙な空間を辿ることになります。それにピリオドを打つのは地中から登る鉄道の高架、武蔵野貨物線の別所信号所(分岐)です。
ここで低い高架下を潜ると車一台は通れる路地で用水の終点までランデブーです。
バイクショップ、自転車屋そして中浦和駅脇を通り、その並び方にかつての西武帝国の威光が偲ばれるファミマ・西友の前を通ると再び貨物線の下を通り、市道からちょっと逸れた所で与野中央公園傍で接した鴻沼川に注ぎ込みます。そしてこの鴻沼川もさらに西進し、秋ヶ瀬公園と荒川彩湖公園の間で鴨川に合流、間髪入れず荒川に合流します。
本当にこの辺り田んぼと水の土地だったのが伺える旅となりました。